インフォメーション
2000年10月

彼は彼なりにいろいろと感じたり、考えたりしながら生きている様です。

2000年10月31日 火曜日

幕末関連史跡補完計画のi−mode版が『あちゃら』の12月号に掲載された。トップページの画像と1行のコメントだけだけれど、掲載されたということが素直に嬉しい。これまでi−modeを持たずにやって来たけれど、キチンとi−modeを持たないとダメかなあ、と思い始める。掲載されたことが、i−mode版の今後について考えるきっかけにもなった。東京と京都しかない史跡便覧を広げていかなければと思う。利便性をあげなければ。いや、その前に背景に色をつけよう。(笑)

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2000年10月30日 月曜日

松代藩の8代藩主真田幸貫は、寛政の改革を行った老中松平定信の次男で、松代藩に養子として入り、名君として藩政改革を行った人物。佐久間象山を擁護したのも幸貫で、象山にとって最大の理解者の1人であった。松代に行ってからこの幸貫という人物に惹かれた。山間の小さな藩でありながら、開明的な藩主により幕末に藩政改革を進めていた松代藩。真田幸貫と佐久間象山が維新まで生きていれば、と思うが残念ながら2人共、維新を迎えることは無かった。

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2000年10月29日 日曜日

テレビをつけっぱなしにしていたら、どこかの番組で下田のことをやっていた。上空から撮った遊覧船サスケハナ号の姿が映り、続いてペリー艦隊上陸記念碑が紹介され、画面はペリーロードへと続いた。お店を紹介する番組だったのか、ペリーロードからハヤシライスの話へと映像が変わり、僕はそこから先を覚えていない。下田には松陰先生関係の史跡も沢山あって、期待していたのだが、一般的には松陰先生よりペリーなのだとがっかりした。そういうものなのかなあ。

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2000年10月28日 土曜日

1837年のこの日(天保8年9月29日)、江戸の水戸藩上屋敷(現小石川後楽園)において、徳川斉昭の七男松平七郎麿が生まれた。徳川家康の開府以来、最後の将軍となる後の徳川慶喜である。最後の将軍については様々な角度から評価がされており、意見もわかれるが、松平容保が語らなかった様に彼もまた維新については多くを語らなかった。晩年、彼が好んで没頭したという写真。ファインダーを通して見る明治という時代、彼にはどの様に映っていたのだろう。

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2000年10月27日 金曜日

真田幸村の子孫の方が運営しているサイトがあって、久し振りにのぞいて見た。幸村の1男4女が伊達家の片倉小十郎に匿われ、仙台藩で再興し、のちに仙台藩の参政まで輩出したとのこと。真田の血は真田なのだと思った。その仙台真田家の子孫が松代藩主に引見したと年表に書いてあった。家光と保科正之の様に感動的な対面となったのだろうか。先祖の血がひき合わせたこの対面の場で2人の交わした言葉というのはどんなものだったのだろう。

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2000年10月26日 木曜日

昨日の日誌に『単に腰を下ろし』と書いたんですが、誤解を招きそうなので補足しておきます。単というのは禅宗でいう修行のために与えられた場所のことで、座禅のために使用する布団を単布団といいます。僕は座ったことはないんですが、座布団というより腰にあてる黒い枕の様なモノだったかと思います。禅宗のお寺に行けば、たぶん何処にでもあるものなのだと思います。僕も本堂に上がったとき、見た記憶があるだけで今となってはそれも怪しい記憶になってますけど。

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2000年10月25日 水曜日

曹洞宗は壁に向かって座禅を組むと聞いた。逆に臨済宗は壁に背を向けて座禅を組むのだという。うちは曹洞宗。こんなことも知らなかった。山岡鉄舟の建てた全生庵は臨済宗だから、きっと彼は壁に背を向けて禅の修業をしたに違いない。先人達の墓を訪ねると、何故か禅宗であることが多い。彼らも単に腰を下ろし、警策に打たれたのだろうか。あるいは座禅から始まるコミュニティというのもあったかも知れない。情報収集の場としてのお寺の存在も否定しきれない。

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2000年10月24日 火曜日

近所にある大きなキンモクセイの花が散った。近所の公園にある紅葉がそろそろ色づき始める頃だ。秋は確実に深まりつつある。あと1、2週間もすると京都も山が見頃になる頃ではないだろうか。京都に行きたい病が疼き始めた。去年もちょうどこの頃に疼き始め、何連休かで京都に行った。それがこのサイトを立ち上げるきっかけになった。あれから1年、そう考えると長い様な短い様な。今年は霊山歴史館で開かれる特別展が終わらないうちに京都に行ければいいのだけど。

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2000年10月23日 月曜日

中途半端なままになっているあらゆるものを放置したまま、前からやりたいと思っていた幕末MD作成委員会を起ちあげた。幕末に関連のある曲を集めて、80分間のMDを作ろうというもの。実際に集められるかどうかは別にして、絶版になってしまっている古い映画やドラマの主題歌もランキングには入れたいと思う。曲は人気の高い順に収録。先ずは曲集めとランキング付け。投票の期間は半年の予定で、来年の夏頃までにある程度、MDの形が出来上がればと思う。

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2000年10月22日 日曜日

昨日の作戦会議で松本から松代に移動することに決定。と同時に戦国から幕末の史跡めぐりに中身が一変した。なかなか幕末から離れられない。松本城を一通り見た後、高速道路を利用して松代へ。象山神社をかわきりに佐久間象山関係の史跡を見て歩く。前回来たときには改修工事中だった象山神社の鳥居も全貌を見ることが出来た。真田家の菩提寺である長国寺では、係の方の案内で解説まで聞くことが出来た。小さいけれど、歴史の凝縮された松代は面白い。

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2000年10月21日 土曜日

午前中に他の用事を済ませ、午後2時過ぎにゆっくりと家を出る。調布から中央道に乗り、諏訪を経由して松本へ向かう。今回の目的地は松本城。幕末ではなく、戦国の史跡めぐり。戦国関係の史跡めぐりは昨年の米沢以来、約1年振り。松本を拠点に上田、松代といった真田縁の史跡などを歩く予定。日が短くなったせいもあり、この日は純粋な移動日。午後5時過ぎに宿に着いた。明日もいい天気だという。松本城から次にどこへ移動するか、決めておかないと。

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2000年10月20日 金曜日

新選組局長新見錦が切腹させられた日。それが1863年のこの日(文久3年9月8日)のこと。これにより、局長は芹沢鴨と近藤勇の2人となり、やがて芹沢鴨も暗殺されて、近藤勇の新選組となる。また、3年後の同じ日(慶応2年9月12日)には、三条大橋西詰北側にあった制札場で制札を壊そうとしていた土佐系浪人と新選組との間で乱闘があった。人斬り鍬次郎こと大石鍬次郎や原田左之助らが活躍した三条制札場事件である。何とも新選組に見入られた日だと思う。

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2000年10月19日 木曜日

明治維新後の廃仏毀釈で廃寺になったお寺の数というのはどれ位あったのだろう。この頃には、お寺からモノが流出し、酷いところだと本尊までも売り払ってしまったりというところがあったらしい。当然ながら、その当時に失われた重要な書簡や書物の類も沢山あったと思われる。あるいは廃寺になるだけではなく、お寺そのものが取り壊され、存在自体を消し去られてしまったお寺というのもあったらしい。廃仏毀釈は本当に必要だったのだろうか。僕にはそれが判らない。

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2000年10月18日 水曜日

昨日、きちんと寝ていたのが効いたのか、熱も下がり、昼頃から食欲も回復。峠は越えたって感じですかねー。まだ、身体中だるいですけど。

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2000年10月17日 火曜日

38度以上の熱に冒され、ダウン。風邪、治ってなかったみたいです。>ヒロさん

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2000年10月16日 月曜日

母方の親戚が亡くなった。来月の下旬に四十九日の法要を行うとのこと。大人になってからはなかなか行き会う機会がなくて、別段の理由もないままに疎遠になってしまっていたのだが、子供の頃は毎週の様に遊びに行っていた。その頃の思い出話をしていたら、叔母が先祖は宇都宮藩の藩医だったらしいと話してくれた。亡くなってからそんな話をされたって、と思ったが、これも何かの縁なのかも知れない。来月、お墓参りがてら先祖のことを調べてみようと思った。

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2000年10月15日 日曜日

この週末もまた用事があって実家に帰った。その実家からの帰り道。いつも気になっている石碑の前を通過。道路の左側に建つその石碑には前から気が付いていて、いつも通る度に気になってはいるのだが、車の通りの激しい道路沿いに建っているということと、駐車スペースが無いということでいつも通り過ぎてしまうはめになる。なかば草に埋もれる様にして建っているあの石碑。何とか碑文を確認する手はないものだろうか。見れないとなると、余計気になって仕方がない。

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2000年10月14日 土曜日

1854年のこの日(安政元年8月23日)、幕府はアメリカとの間に日米和親条約を締結し、長崎と箱館の2港を開港することとした。200数十年におよび日本が守り続けてきた鎖国政策が幕を閉じた瞬間だった。それからわずか18年後の同じ日(明治5年9月12日)、新橋と横浜の間に日本初の鉄道が開通。日本は明治維新を迎え、近代国家へと向けて成長していくことになる。

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2000年10月13日 金曜日

幕末。たかだか140年ほど前の曾々祖父の生きた時代。考えてみると手が届きそうなくらい身近に感じられる。人でいうならば、3代か、4代前の時代になるけれど、植物で考えるとそれこそ大した時間ではない様に思える。あるいは土方歳三や松平容保を目撃した木だってあるかも知れない。前に読んだ小説の主人公は、草や木などと話をすることが出来た。植物と話をすることが出来たなら、史跡めぐりに古木めぐりを加えて、幕末のありのままを取材して歩くのにと思う。

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2000年10月12日 木曜日

山岡鉄舟のページに参考文献のページを追加しました。参考文献と言うより書籍一覧ですね。読んだことない本も多いですし。それにしても山岡鉄舟関連本、特に研究本の少ないこと。幕末だと新選組本か、勝海舟本に申し訳程度に出て来るのがほとんどで、山岡鉄舟の単独本となると無いに等しいです。相楽総三もそうですが、本探しには苦労してます。図書館とかに行って、資料から探したほうが早いんじゃないかと思う程です。気長に付き合うしかないですね。

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2000年10月11日 水曜日

前から探していたカレンダーのCGI。探していたものがやっと見つかった感じ。予定にコメントの付けられるタイプのカレンダー。近日中には、フレームのメニュウの下のほうにあるカレンダーのリンクが有効になる予定ですので、あとホンの少しだけお待ち下さい。一応、チャットの開催日だとか、オフの予定だとかを書き込める様にしたいなと思ってます。チャットも機能させないと。

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2000年10月10日 火曜日

都内の史跡散策に出掛けようと思っていたが、結局3日間の疲れが出てしまい、家でダラダラと過ごす。予定は予定、なかなか思い通りには行かない。

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2000年10月09日 月曜日

1858年のこの日(安政5年9月3日)、彗星が夜空を覆った。彗星が現れる3年前には藤田東湖が亡くなったことでも知られる安政の大地震が関東を襲ったばかりで、それに続く彗星の出現に街には不吉な噂が飛び交った。さらに数年後、江戸の街においてコレラが大流行すると、人々はこれらの天変地異と国政とを結びつけ、漠然とながら国の行く末を予感する様になっていく。

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2000年10月08日 日曜日

1868年のこの日(明治元年8月23日)、関東から東北にかけて台風が襲った。その台風は鹿島灘で榎本艦隊を襲い、会津若松で白虎隊を襲った。榎本艦隊のうち、美加保丸は沈没、咸臨丸は下田まで流され、蟠竜丸は清水港まで流された。このとき、美加保丸に搭乗していた伊庭八郎はここから江戸、横浜へと逃避行を行うこととなる。一方、十六橋から撤退してきた白虎隊は、暴風雨の中、食料調達に向かった隊長日向内記と逸れ、悲劇の飯盛山へ向かうこととなった。

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2000年10月07日 土曜日

10日が休みとなり、4連休。ホントならば、連休を利用して京都にでも行きたいところだが、家の事情でこの週末は3日間共、外出する予定になっており、自由になりそうなのは10日のみ。ホームページの更新もしたいし、史跡散策に出掛けたい気もするし、部屋の掃除はしなければいけないし、図書館にも行きたい。火曜日をどの様に過ごすか、考える時間はまだ充分にある。

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2000年10月06日 金曜日

佐賀の乱のとき、江藤新平が決起を促した人物の中に土佐の林有造がいます。結局誰も応じず、江藤らは単独で決起する訳ですが、一時は佐賀城から県令を追い落とす程の勢いを見せました。このときの佐賀県令が岩村高俊、小千谷会談で河井継之助の嘆願を跳ね除けた軍監岩村精一郎でした。こんなところで出世してたんですね。いわば、江藤の敵とも言えるこの岩村ですが、この人の実兄が土佐の林有造だったということを果たして江藤は知っていたんでしょうか。

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2000年10月05日 木曜日

週末に北海道に行って来ました。ほとんど、病院と家とを往復していただけなので、ここに書ける様なことはないんですが、銀行に出掛けたときのこと、置いてあった雑誌に利尻島の特集が載っていて、会津藩士の碑が紹介されてました。北方警備のため、会津藩や水戸藩などから大勢の人達が極寒の北海道へ行ってるんですよね。地味ではあるけれど、大きな役割を持って幕末という時代の一端を担っていた人達の碑。生きた土地。1度は行ってみたいなと思っています。

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2000年10月04日 水曜日

風邪により、自宅療養中。

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2000年10月03日 火曜日

風邪により、自宅療養中。

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2000年10月02日 月曜日

急な家庭の事情により、北海道へ。

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2000年10月01日 日曜日

急な家庭の事情により、北海道へ。

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