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2000年11月

彼は彼なりにいろいろと感じたり、考えたりしながら生きている様です。

2000年11月29日 水曜日

1815年のこの日(文化12年10月29日)は、のちの幕府大老井伊直弼の生まれた日。何故か、スターウォーズの大好きな僕は、井伊直弼というとダースベーダーを連想してしまって、安政の大獄をイメージするとき、頭の中でダースベーダーのテーマが響き渡る。そんなダークなイメージの井伊直弼にも、藩主に成ったばかりの松平容保に細やかな配慮を見せたり、開国を決断するにあたって深く思い悩んでいたり、人間臭い部分を垣間見たりすると何だか安心したりする。

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2000年11月28日 火曜日

戦国時代で好きな武将というと、直江兼続と真田幸隆だったのだけれど、この頃は直江兼続と真田信幸になってきた。その直江兼続の主、上杉景勝が真田太平記に登場した。直江兼続は出て来なかったけれど、さすがは120万石の領主、懐の深いところを見せて真田昌幸を臣下に収めてしまった。しかし、小国の領主というのは、生き残るのに必死だったんだなあ、と真田を見ていてつくづく思う。織田についたり、徳川についたり、上杉についたり。表裏比興の者。納得。

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2000年11月27日 月曜日

真田太平記を読んでいて、諸将の動きを見ていると運の強さとか、弱さとかいうのを感じずにはいられない。特に時代を動かしている人達の運の強さというのは、ある種神懸っていたりする。それは単なる強運で片付けられる枠を超えてしまって、あたかもシナリオで決められていたかの様な見事なタイミングで命を救われたり、相手を討ち破ったりしてしまう。これは幕末も同じで、そうした人達が時代の寵児となり、劇的に時代を動かしてしまう。それもやはり実力なのだろうか。

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2000年11月26日 日曜日

昨日、巣鴨にあるお寺で伊達慶邦という名前を見掛け、気になっていたのだが、幕末の仙台藩主であるということが解った。仙台のお寺に移葬される前のお墓があったところらしい。碑文に細かい内容が書かれていたのだが、時間的な余裕が無かった関係で、きちんと読んで来れなかったのが悔やまれた。何故、巣鴨なのだろう。例によって駆け足でまわったツケがこんな形で現れた。もう1度、巣鴨に行ってみるしかないのかな、と思う。また、宿題が1つ出来てしまった。

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2000年11月25日 土曜日

久し振りに都内の史跡を歩いた。先ずは四谷から紀尾井坂を目指す。紀尾井坂界隈を一通り歩いてから、皇居方面へ。前回歩いたときに撮り損なった写真やきれいに撮れなかった写真を撮り直しながら、皇居を1周。まだ時間があったので、竹橋の駅から地下鉄で高田馬場に戻り、山手線で巣鴨に移動。染井霊園を歩くことにした。染井霊園の管理事務所で例によって霊園マップをゲットし、幕末の有名人をチェック。それにしても日が短くなっているなあ、と実感。疲れた。

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2000年11月22日 水曜日

先週の『その時、歴史が動いた』は、坂本龍馬暗殺事件だった。再放送を録画しようと思っていたのに、気が付いたら次の放送日になっていた。どうもこの頃、テレビから遠ざかってしまっている。今夜の番組は、薩摩の森有礼と学校制度の話。あまり興味が無かったので、これは見なかった。来週は、徳川慶喜と大阪城脱出の話。こっちは見逃さない様にしないと。僕の見ている回が偶々そうなのかも知れないけれど、この番組は幕末モノが多い様に思う。いいことだ。(笑)

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2000年11月21日 火曜日

永倉新八の墓が4ヶ所もあるとは知らなかった。北海道の小樽と札幌の杉村家の墓。それから岡山県岡山市の長倉本家の墓。そして、東京都北区にある永倉新八の墓。こんなにお墓がある人も珍しいのではないかと思う。戊辰戦争終結直前に松前藩に帰藩はしているけど、旧幕府側にくみし、しかも長年、新選組の中枢にいた人物なのだ。いや、それより何故すんなりと帰藩がかなったのだろう。松前藩といえば、土方歳三らに散々痛めつけられた藩だというのに。不思議だ。

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2000年11月20日 月曜日

遅ればせながらというか、ようやくというか、高知で撮った写真の整理を再開した。とりあえず、初日の後半にあたる龍馬歴史館から中江兆民生誕之地までの分に手を着け始めたのだが、細かい部分の記憶が消えつつあることに焦りを感じる。あれ、何の写真だっけ・・・というのが少なくない。ということで再開はしたものの、写真の整理は難航中。今月中に高知の第2弾をアップしたいのだけど、どこまで出来るのだろう。しかし、高知はホントに良く史跡が残されていると思う。

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2000年11月19日 日曜日

綱淵謙錠の『乱』という作品を見つけた。フランス公使ロッシュとイギリス公使パークスの側から幕末を描いた作品らしい。綱淵謙錠だし、視点が面白かったのでどうしようかと思ったが、まだ手に入るだろうという気がして、少し悩んだ揚句に書棚に戻した。古書店ならば、迷わずに買って帰るところなのだけど、恐らくあと2、3回悩んでから買うんじゃないかと。余談ながら、僕が探していた松代藩について書かれた本も、山科けいすけの『SAKAMOTO』も見つからなかった。

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2000年11月18日 土曜日

久し振りにいい天気だったので、ドライブがてら史跡を見に出掛けようかと思ったが、僕のちょろい身体が頭痛を訴えていたので断念。昨日、夜更かししたのが悪かったらしい。部屋の掃除をしていて山科けいすけの『SENGOKU』を見つけた。戦国時代をモチーフにした漫画。ちょっとのつもりが、つい、読みふけってしまった。幕末をモチーフにした『SAKAMOTO』とかいうのもあったと思うのだけど、何処に行ってしまったのだろう。今度、書店で続巻を探してみようと思った。

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2000年11月17日 金曜日

幕末の有名人を戦国武将に例えると高杉晋作は織田信長、西郷隆盛は武田信玄、大久保利通は上杉謙信。これは飽くまでも僕の独断と偏見です。けれど、武田信玄と上杉謙信が手を握っていれば、西郷と大久保の様な役割分担で機能しただろうし、天下を握っていた様な気がするんですが、どうでしょう。悩んだのは、坂本龍馬。真田幸村とか、豊臣秀吉とか、思い浮かべてみたけれど、何か違う様な気がする。何方か、これは、という人物を思いついた方はメール下さい。

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2000年11月13日 月曜日

先日、初めて自分のi−mode版サイトをi−modeから確認することが出来た。思ったよりもきちんと表示されていて驚いたのと、ほっとしたのと。i−mode版のサイトを作っている以上、これはやはりi−modeに乗り換えるべきだと改めて感じた。携帯がツーカーなので単純に乗り換えるとEZwebになる。DoCoMoになびくのは嫌だけれど、ユーザー数とサイト数を考えるとi−modeのほうがいいのだろうな、と無理矢理納得してみた。今週末にでも携帯屋さんに行ってみよう。

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2000年11月12日 日曜日

この土日も北海道に来る用事があって、特に今回はあちこちと車で走ったのだけれど、札幌市内を走っていて思うのはホントに新しい街なんだなあ、ということ。街は碁盤の目の様に整備され、道も広いし、交差点も南1西1という様に表現され、判りやすい。そして何よりも街中に碑だとか史跡を見つけることが出来ないのだ。偶に何かあったとしても明治以降の出来事に対する碑や史跡であってお寺や神社にしても新しい様に思われる。過去がない街・・・不思議な街なのだ。

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2000年11月11日 土曜日

1855年11月11日(安政2年10月2日)は、安政の大地震があった日。地震の規模はマグニチュード6.9といわれ、7000人以上の死者を出したとのこと。この地震で水戸藩の藤田東湖が倒壊した建物の下敷きになり、圧死したというのは有名な話。小石川後楽園の中にある藤田東湖の碑が判らず、探して歩いたのを思い出した。小石川後楽園か、東湖の墓がある水戸の常盤共有墓地では供養祭とか行われたのだろうか。もう少し見直されてもいいと思うのだけど。

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2000年11月10日 金曜日

また真田の話。松代藩8代藩主幸貫は老中松平定信の次男。当然ながら親の後押しもあったと思うけれど、余程出来た人物であったのか、外様大名である真田家から唯一老中を務めた。9代藩主は幸貫の孫で養子となった幸教。幸教は黒船来航の年に藩主となり、慶応2年まで幕末の真田藩を指揮した。幸教隠居後、家督は最後の藩主となる10代幸民に継がれる。この幸民は宇和島藩主伊達宗城の次男。養子も皆一流の血筋という所が、真田の凄いところだと思った。

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2000年11月09日 木曜日

たまりの間掲示板をリニューアルした。新しい掲示板は、従来のものより字も大きいし、返信ボタンなんかもあって心なしか使い勝手も良さそうな気がする。欲を言うと文字に色を付けられたりしたほうがいいのだけれど、アイコン付きの優希屋掲示板と機能的にかぶってしまうので、かえってシンプルなほうがいいのかも知れない。掲示板の次はチャットを変えようと計画中。@Niftyから提供されているチャットは、やっぱり少し堅苦しい。もっと気楽に入れるチャットがいいと思った。

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2000年11月08日 水曜日

これまで真田というと幸隆が好きだったのだけれど、池波正太郎の『真田騒動』を読んでいて松代藩の初代藩主信之(幸村の実兄)に惹かれた。外様大名に対する統制が一番厳しかった幕府草創期。彼はその中にあって、実父と実弟が終始豊臣方についたという圧倒的不利な状況にありながら、上田から松代への転封のみで真田の血をつないでいる。うがった見かたをするならば、彼がいたから昌幸も幸村も思う戦えたのだろうし。ちゃんと手をあわせてくるんだった。

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2000年11月07日 火曜日

旧石器発掘ねつ造事件の関係者による謝罪行脚が始まったとテレビで報じていた。今回、発掘をねつ造した藤村氏は神の手を持つと言われ、旧石器文化の北限や年代を自らの発掘により塗り替えた遺跡発掘の第一人者。もっと凄いものを発見しなければ、というプレッシャーから行ったと釈明し、埋めたのは上高森遺跡と総進不動坂遺跡の2ヶ所だけだと語っているが、落ちた信頼を回復することは不可能に近い。考古学だとか、郷土史が後退しなければいいのだけど。

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2000年11月06日 月曜日

真田幸村と豊臣秀頼に生存説があるということを知った。判官びいきというのは日本人の中に連綿と受け継がれている様で、人気のある人物になればなるほど、生存説は尽きない。真田幸村が鹿児島に落ちのびて真江田姓を名乗ったとか、東北に落ちのびて飯田姓を名乗ったとか。幕末でも西郷隆盛がロシアに渡ったとか、新選組の原田左之助が大陸に渡って馬賊になったとか。真実ではないのだろうけれど、それでも信じたくなってしまう。日本人だなあ、とつくづく思う。

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2000年11月05日 日曜日

松代に行って以来、またまた僕の中で真田熱が高まってきて、真田モノが読みたくなり、池波正太郎の『真田騒動』をひっぱり出して来た。『真田騒動』は真田モノばかりを集めた短編集。この中に松代藩の話も含まれている。大坂夏の陣で家康を窮地に追い込んだ真田幸村の兄信幸が家名を守るのにどれほど辛い思いを重ねたのかは判らないが、会津に限らず、藩には藩の歴史があって、それが少なからずその後の舵取りに影響している。真田も例外ではないと感じた。

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2000年11月04日 土曜日

1868年のこの日(明治元年9月20日)、会津の鶴ヶ城において8月23日より約1ヶ月におよぶ篭城戦を闘ってきた松平容保は、内々に重臣達を集め、降伏の決意を告げた。会津藩はこれを受けて、22日に開城降伏することになる。奇しくも同じ20日、松平容保が京都守護職を務めた王城の地、京都では明治天皇が江戸に向け、京都御所を出発したばかりであり、ここに明治維新の1つの重要な局面があるいは終わり、始まろうとしていた。偶然・・・なのだろうか。

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2000年11月01日 水曜日

先日行った長野県長野市周辺の史跡をアップした。天候が悪かったため、全体的に暗い写真が多く、編集するのに苦労した。もっと、写真の撮り方を勉強しなければと、こうした写真を編集する度に思う。デジカメでは無く、普通のカメラで撮った写真をスキャナで取り込んだほうがいいのではないかとさえ思う。課題はつきない。画像と平行して史跡散策ノートをアップした。これは散策をした際のメモ書きの様なもの。何とかうまく史跡便覧とリンクしていけないか、模索中。

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