インフォメーション
2000年09月

彼は彼なりにいろいろと感じたり、考えたりしながら生きている様です。

2000年09月30日 土曜日

急な家庭の事情により、北海道へ。

TOP
2000年09月29日 金曜日

1860年のこの日(万延元年8月15日)、水戸の烈公こと、徳川斉昭が亡くなった。兄の跡をついで水戸藩主となり、数々の改革を推し進めてきた斉昭は、外国の脅威と国防の急務を説いて、黒船の来航以降、幕府の中心的存在となった。しかし、開国への転換をはかる幕府と井伊直弼の弾圧により失脚。まさに烈火の如く生きた61年の生涯だった。藤田東湖に続き、精神的な支柱であった徳川斉昭までも失った水戸藩は、ここから混迷の時代へと突入していく。

TOP
2000年09月28日 木曜日

奥羽越列藩同盟の崩壊というのは、奥羽鎮撫総督九条道孝を仙台藩が手放してしまった瞬間から予測し得たことだったのではないだろうか。奥羽越列藩同盟は1番大切な大義名分を失ってしまったことになる。政治的な駆け引きを得意とする薩長にしてやられたという感じがしないでもない。確かに薩長を中心とする軍隊は、私怨の軍隊であったかも知れない。しかし、充分な機会を得ていながら、政治の非情さを持ち得なかった同盟諸藩は、これにより方向性を失った。

TOP
2000年09月27日 水曜日

現代に生きる医師が幕末にタイムスリップし、疫病と闘うという漫画の広告を見た。医者ならば、疫病と闘うということで幕末を生きていくことが出来る。ふと、これを自分に置き換えて考えてみた。毎日パソコンを使って仕事をしている僕がタイムスリップしてしまったとして、生きていけるのだろうか。当然ながら幕末にパソコンは無い。他に出来る仕事といってもこれといって思いあたらない。そこで考えた。占い師をしよう。次に何が起こるかは判っているのだから。ダメかなあ。

TOP
2000年09月26日 火曜日

このところ急に冷え込んだせいで風邪をひいたらしい。体調が悪いので寝ます。ぐしゅ。

TOP
2000年09月25日 月曜日

夏に歩いた高知の史跡をアップした。今回アップしたのは、初日の前半に歩いた室戸から安芸にかけての史跡。友人と2人でレンタカーを借り、炎天下の中、かなりの強行スケジュールで高知と室戸の間を往復した。岩崎弥太郎の銅像が見つからず、車でうろうろしたりもした。車で走っている途中、道端で偶然見つけたのは島村省吾の墓だった。FMラジオをかけながら、海沿いの道を山間の道をひたすら走った2日間。次は初日の後半部分。高知の史跡はまだ続きます。

TOP
2000年09月24日 日曜日

史跡というのは永遠ではない。この頃頻発している噴火や地震、水害といった天災の前には成すすべが無い。先日の名古屋の水害で失われたものの中にも、こういった史跡が含まれていたのではないかと思うと残念でならない。歴史というのはある種失われ続けていくものだと思う。それを考えると多少無理してでも多くの史跡をまわりたいと思ってしまう。僕が旅行に出掛けるとき、どうも史跡がからむと無茶な計画をたててしまうのは、この辺りに原因がある様な気がした。

TOP
2000年09月23日 土曜日

1ヶ月がとても早く過ぎて行く様な気がする。趣味の時間が足りない。何に時間を使っているのだろう。史跡だってもっともっと見てまわりたいのに。ああ、チャットする時間が欲しい。

TOP
2000年09月22日 金曜日

昔の人は偉かった。高知の写真を整理していて思った。中岡慎太郎は7歳から野友村の島村塾に四書を学びに通い始めるのだが、この野友村へは片道1時間半の山道を歩いて行く。電車での通勤でさえ、1時間を越えると弱音を吐いてしまういまの状況を考えると7歳の中岡慎太郎に頭が上がらない。薩長同盟を成立させるため、ときに1日で100Km近くを歩いたという健脚はこのときに作られたといって過言ではない。機会があったなら、あの向学の道を歩いてみたい。

TOP
2000年09月21日 木曜日

僕はきっとどんなところにでも住めるんじゃないかなと思う。ちょっと、そんなことを考えた。人が住んでいるところならば、長い短いの差こそあれ、歴史が存在する訳で、歴史が存在するならば、おそらく退屈することはないだろうと思うからだ。この頃、歴史を調べるということに興味の対象がある、と気が付いた。知識欲というほど、格好いいものでも高尚なものでもない。けれども、調べる対象を見つけることが出来る土地ならばどこにでも住める。そんな気がした。

TOP
2000年09月20日 水曜日

メニュウの桂浜夜会の下にカレンダーというのがあると思うんですが、このカレンダーにいま頭を悩ませてます。ここはサイトカレンダーという形で、このサイトに関連のあるイベントなどを掲載するカレンダーにしようと思ってるんですが、なかなか思った様なCGIが見つからず、工事中のまま。結局、思った通りのものが欲しいとなると自分で作るしかないのかな、と。かと言って、CGIを組んでる時間は無いし。どなたか、これはお奨めというCGIを知っていたら教えて下さい。

TOP
2000年09月19日 火曜日

今日は新門辰五郎の命日。ちょうど125年前のこの日に亡くなった。新門辰五郎は、江戸町火消し「を組」の頭。もともと中村辰五郎といったが、浅草寺の新門警護を請け負ったことから、新門辰五郎と呼ばれる様になった。徳川慶喜に重用され、慶喜が禁裏守衛総督になると上洛し、二条城の警護などを行った。のち慶喜自身の警護を行う様になり、維新後は慶喜に従って水戸、駿河に同行。維新の混乱がおさまってから江戸に戻り、明治8年に浅草の自宅で他界した。

TOP
2000年09月18日 月曜日

172年前のこの日(文政11年8月10日)、長崎奉行所はシーボルトの帰国の荷物の中に日本地図を発見した。シーボルト事件である。シーボルトが国外に持ち出そうとした日本地図は、伊能忠敬が作成した地図で当時最高の機密のひとつだった。それが漏れた。しかも積荷の中には江戸城の見取り図まであったというから、幕府の動揺は大きかったに違いない。シーボルトに地図を渡した門弟の高橋景保は獄死。シーボルトはこの事件で入国禁止の処分となった。

TOP
2000年09月17日 日曜日

家族旅行で茨城県の瑞竜山に出掛けた。瑞竜山は水戸徳川家の墓所。僕が無理矢理コースに組み込んだのは言うまでも無い。水戸黄門でおなじみの徳川光圀の他、9代徳川斉昭、10代慶篤、支藩である宍戸藩主徳川頼徳などの墓がある。徳川頼徳は水戸の騒乱を鎮めるため、江戸に居る水戸藩主徳川慶篤の名代として水戸へ赴くが、水戸城に入ることも叶わず、門閥派のために切腹させられたという悲劇の人。藩内抗争の異常さを伺うことが出来るエピソードの1つ。

TOP
2000年09月16日 土曜日

シドニーオリンピックが始まった。明治28年にギリシャのアテネで始まった近代オリンピック。27回大会となるシドニーの開幕式で目をひいたのが、日本選手団の虹色マントだった。放送直後から日本オリンピック委員会に抗議が殺到したらしい。服装選考委員会委員長の森英恵さんも知らなかったという。個人的にはあれもありかな、とは思う。けど、日本らしさを出すのなら、浅黄色の羽織でも羽織ったほうが、外国の人は喜んだのではないだろうか、とも思ったりする。

TOP
2000年09月15日 金曜日

チャットルームを開設しました。桂浜夜会なんて名前になってますが、話題は自由ですので、気軽にのぞいて見て下さい。チャットのCGIも今はNiftyの既存のものを使っていますが、使いづらい様なら換えていこうと思ってますので、使用感なども聞かせて頂けると嬉しいです。とりあえず、まめにのぞく様にしますので、もし見かけたら是非声を掛けて下さい。お待ちしてますー。

TOP
2000年09月14日 木曜日

138年前のこの日(文久2年8月21日)、大名行列を横切った英人が殺害された。生麦事件である。陸路鹿児島へ向かっていた薩摩藩島津久光の行列が生麦村にさしかかったところ、川崎大師を見物に来ていた4人の英人が馬のまま行列を横切った。これに供頭の奈良原喜左衛門が斬り掛かり、事件は起こった。結果、1人が死亡、2人が重傷。英国は幕府と薩摩に賠償金を請求。しかし、薩摩がこれに応じなかったため、生麦事件は薩英戦争へと発展して行くこととなる。

TOP
2000年09月13日 水曜日

土佐郷士島村省吾について調べ始める。高知の写真整理の一環。ネットで引っ掛かるかなと思って幾つかの検索エンジンで調べるが、何も引っ掛からなかった。インターネットと言ってもまだ情報が偏っていて何でも調べられるという訳ではない。逆に歴史などの場合、ヒットしないことのほうが多かったりする。そんな訳で結局いつもの様に人名事典やら手許の拙い資料を漁るはめになる。やはり、図書館に行けないのが辛い。図書館の深夜サービス、始めてくれないかなあ。

TOP
2000年09月12日 火曜日

チャットの準備を進める傍ら、生没年表の修正に着手しました。いま公開しているのは、どんどん下に追加しながら作成していったので順番がグチャグチャなのと、1つの画像ファイルになっているのでメンテナンスが面倒だというのがあって、気にはなっていたんですが、なかなか修正している暇が無くて放ったままになってました。新しいバージョンの生没年表は人物の数も少し増やしてアップする予定です。その次は略年表なんですが、フォント下げたら見ずらいですよね?

TOP
2000年09月11日 月曜日

うちのサイトは優希のあぢと共々、Niftyに置いてあるんですが、Niftyには1IDに付き、掲示板とチャットを1つずつ簡単に開設することが出来るというサービスがあるんですね。掲示板のほうはツリー形式なので、使い道に困っているんですけど、折角無料なのだからチャットくらいは開設してみようか、ということで準備をしています。使えるものは使ってみようという程度なので、どんなふうになるかは判りませんが、2、3日中には開設出来ると思いますので、遊びに来て下さい。

TOP
2000年09月10日 日曜日

前日横浜の親戚の家に泊まり、昼少し前に横浜を出た。昨日に続いて暑いくらいのいい天気。デジカメを家に置いて来てしまったのを後悔した。横浜市街に出て、史跡を見て歩くことも出来たのにと思う。あるいは少し遠回りをして帰るという手もある。折角、車で来たのだし、この位のことは予想しておくべきだったと思ったが、仕方がないので真っ直ぐ帰ることにした。東名高速道路も環状8号線も空いていて、休日の昼だとは思えないくらい。空いているのがちょっと悔しい。

TOP
2000年09月09日 土曜日

大久保利通と岩倉具視の2人しか知らないこと、というのはどれ位あったのだろう。何らかの形でそれが残されていれば、維新史の謎となっている部分がどれ程解明されることかと思う。龍馬の暗殺あるいは孝明天皇の死因などについても明らかになるかも知れない。どうも僕の中でこの2人はそういうイメージが強い。勝海舟の様にホンの少しでも語り残してくれれば良かったのだが、大久保利通が暗殺され、わずか5年で岩倉具視もこの世を去り、その機会は永遠に潰えた。

TOP
2000年09月08日 金曜日

1864年のこの日(元治元年8月8日)、長州藩は高杉晋作を正使とし、四カ国連合艦隊と講和会談を行った。同席したアーネスト・サトウが魔王の様だったと高杉晋作を評した講和会談である。晋作はこの席上、賠償金の支払い要求および彦島の租借要求を退けた。ことに彦島の租借問題は、晋作でなければ、第2の上海を生んでいたかも知れない。この講和会談から1ヵ月後、井上聞多が刺客に襲われ、周布政之助が自殺。時代はまたも晋作の登場を待つことになる。

TOP
2000年09月07日 木曜日

特集ページ用に相楽総三と赤報隊について調べていて、この頃、相楽総三と清河八郎が重なって見える様になって来た。偽官軍の汚名は相楽総三の独断先行を封じるための苦肉の策ではなかったか。江戸撹乱に功をあげた相楽は薩摩藩における自分の居場所を見誤ったのではないだろうか。それがいつしか過信となって自滅への道を進んで行くことになる。策士策におぼれる。藩という基盤を持たないこの2人が同じ様な末路を辿っているのも不思議な一致だと思う。

TOP
2000年09月06日 水曜日

遅ればせながら、7月に行った高知の写真の整理を始めた。量が多かったので敬遠していたのだが、何回かにわけてアップすることにした。室戸岬方面と梼原村方面をまわるのが精一杯で、高知市内はほとんど歩いていないのだけど、写真の量は200枚近い。高知にどれだけ史跡が多いのかが判る。高知には、もう1回か、2回くらいは行きたい。いや、多分、それでも足りない。

TOP
2000年09月05日 火曜日

急な家庭の事情により、北海道へ。中身が重複してしまうため、この間の経過については、優希のあぢとのフライトレコーダーに掲載しました。戻りましたので、明日より日誌を再開します。

TOP
2000年09月04日 月曜日

急な家庭の事情により、北海道へ。

TOP
2000年09月03日 日曜日

急な家庭の事情により、北海道へ。

TOP
2000年09月02日 土曜日

ヒロさんところのオフで深川から両国界隈を歩く。佐久間象山砲術塾跡から始まり、子母沢寛の小説「父子鷹」にも登場した勝海舟縁の能瀬妙見まで。途中、深川めしを食べたり、アイス最中を食べたりしながら、次々と史跡をクリアして行く。思い出した様な暑さにバテながらも、同じ趣味を持つ人達と歩くのはホントに楽しい。いつも誰かが史跡を説明してくれたりして勉強にもなる。夜は中目黒の居酒屋新撰組に行って飲み会。時間の過ぎるのが異様なほど早く感じた。

TOP
2000年09月01日 金曜日

本棚を眺めていて不思議なものを発見。背表紙に「京都守護職−会津藩の光と陰」と書いてある。がーん、持っていたのか。何だか急に嫌な予感がして、「京都守護職−会津藩の光と陰」「王城の守護職」をパラパラと繰ってみた。何だか中身が似ている。いや、多少の手は加えられているものの、セリフまで同じではないか。どうやら「京都守護職−会津藩の光と陰」というのは、「王城の守護職」「続王城の守護職」の焼き直し版っぽい。やられた。こういうのが一番質悪い。

TOP