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2001年02月

彼は彼なりにいろいろと感じたり、考えたりしながら生きている様です。

2001年02月19日 月曜日

歴史好きの人ならば、きっと1度くらいはタイムマシンが実在すれば・・・と考えたことがあると思う。たった1度きり、1往復だけ、タイムマシンを使用することが出来るとしたら、どの時代のどの場面に行きたいと考えるだろう。その時、歴史が動いた・・・ではないけれど、僕ならばやはり何か大きな決断が下された場面をのぞいてみたい。先日、何の番組だったかは忘れてしまったけれど、テレビでタイムマシンの研究をしている人が紹介されていた。その人の言葉では、タイムマシンの開発は可能だという。頑張って長生きすれば、あるいは本当にそういった場面をのぞくことが出来る様になるのかも知れない。窓の外をながめながら、そんなとり止めのないことをボーッと考えた。

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2001年02月18日 日曜日

明治維新の頃の三条実美というと、僕の中では何故か40歳後半くらいのイメージがあって、根拠もなく疑わなかったところがあるのだけれど、実際には1837年生まれで徳川慶喜や板垣退助と同年代だったりする。明治維新時、わずかに31歳という若さで政府の中心に立っていたことになる。のちに臨時で内閣総理大臣を兼任した時期はあったが、太政大臣から内大臣となった頃の三条実美をフレイザー英国公使夫人は「政治にはもう飽きあきした上品な紳士」であると評した。その三条実美が1891年(明治24年)のこの日、55歳で亡くなった。岩倉具視から遅れること8年。気苦労の多い人生であった様に思う。墓は東京都文京区の護国寺にある。

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2001年02月15日 木曜日

先日、大宮の氷川神社の近くを通った。大宮の名前は氷川神社を大いなる宮居として奉ったことに由来するという。僕としては相楽総三が参拝した神社という意味で興味があった。文久3年12月、後の赤報隊1番隊々長となる相楽総三こと小島四郎が江戸に戻る途中、参拝に立ち寄っている。僕は時間の関係で参拝することが出来なかったけれど、気になったので帰ってから少し調べてみた。すると、維新後、武蔵国鎮守の勅祭社と定められ、明治天皇の行幸が行われていることが判った。これは少し無理をしてでも参拝して写真に収めて来るんだったと後悔。

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2001年02月14日 水曜日

掲示板にある竜野さんの発言を読んで、Yahoo!オークションをのぞきに行った。安政四年の人相似顔絵付き手配書の高札が出品されている。僕には本物かどうかの判断はつかないけれど、この高札のことを考えていて思った。本物とか偽物って何だろうということ。博物館に並べられている遺品とかいわれるものだって、本当に本人が使っていたものかどうかなんて解らない。明らかに後世の人の手によって作り出されたものでない限り、本物かどうかいい切ることは難しい。これは史跡についても同じ。指紋やDNA鑑定が可能か、写真に残っているなどすれば別だけど、ほとんどの場合が記録や伝聞の類を信じるしかない。科学の様に割り切れないところが歴史の魅力だということにもなるのだろうけれど、歴史って難しい。

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2001年02月13日 火曜日

1862年のこの日(文久2年1月15日)は坂下門外の変が起こった日。江戸城坂下門外において、和宮降嫁に反対する水戸浪士により、老中安藤信正が襲撃された。しかし、桜田門外の変の後であったことと、あまりにも計画が粗漏であったことが禍し、襲撃は失敗。全員が討ち取られる結果となった。尊皇攘夷の総本山とまで賞された水戸藩は、桜田門外の変を境に急激に悲壮感を増し、天狗党の乱を期に表舞台から姿を消していくことになる。毎年、この頃になると吉村昭の「桜田門外の変」を読み返したくなって来る。梅の季節が過ぎて落ち着いた頃、今年は久し振りに水戸に出掛けてみようかと思う。

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2001年02月09日 金曜日

仕事の帰りに立ち寄った本屋で綱淵謙錠の「幕末を生きる」文春文庫刊をゲット。「幕末を生きる」は、幕末に関連のある話題を集めたエッセイ集。綱淵謙錠のエッセイ集は読んだことがないので、これは今から読むのが楽しみ。「戊辰落日」とは違って、気軽に読めそうな感じがした。実は他にも何冊か気になる本はあったのだけど、ちょっと財布の中身が気になって買うのを止めた。積読になってる本も沢山あることだし・・・。これは自分に対する言い訳。

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2001年02月08日 木曜日

1868年のこの日(明治元年1月15日)、徹底抗戦を主張する小栗上野介は徳川慶喜の命により、勘定奉行と陸軍奉行の役職を解かれた。小栗上野介の命運はこの日に定まったと言っても過言ではないかも知れない。権田村に隠棲した小栗上野介が東山道軍により斬首されるのは、ここからわずか4ヶ月後のことになる。おりしも大阪から幕府の軍艦富士山丸に乗り込み江戸に向かった新選組は、小栗上野介が罷免された同じ日、品川に上陸すると旅篭釜屋に投宿。数ヶ月後、甲陽鎮撫隊となった新選組は勝沼において小栗上野介を討った東山道軍と対峙することになる。

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2001年02月07日 水曜日

京都霊山歴史館の特別展。次回の予定は「木戸孝允展」とのこと。会期は4月12日(木)から5月13日(日)と公式サイトに載っていた。東京は昨日からの雨が夜から雪にかわった。また、この週末も雪になるのだろうかと思うと憂鬱になる。いっそのこと京都にでも出掛けてみようかと思ってのぞいた霊山歴史館のサイトだったけれど、特別展が4月から始まるならば、4月まで待ったほうがいいのかなあ、とも思う。これは、部屋で大人しく写真の整理でもしたほうがいい、ということなのかも知れない。

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2001年02月06日 火曜日

ジャングルTVを見ていたら、創業文久2年という老舗「はせ甚」が出ていた。日本橋長谷町に牛鍋のお店を出してから約140年という懐石すきやき、しゃぶしゃぶの専門店。幕末の有名人も訪れたかも知れない・・・と思うと行ってみたくなるが、きっと高いんだろうなあ。牛鍋はすきやきとは随分と違うものだと聞いたことがある。文明開化の味と言われた牛鍋。いまでも出してくれるところってあるのだろうか。牛鍋を出してくれるお店ならば、少しくらい高くても1度でいいから行ってみたい。

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2001年02月05日 月曜日

真田家(この頃、こればっかりだけど。)と会津松平家の接点を発見。会津松平家の始祖は保科正之。かれは秀忠の四男で、家光の弟にあたるのだけど、幼少の頃に故あって信州高遠藩の保科正光のところに養子に出された。この保科正光の正室が実は真田昌幸の四女といわれている。直接、血のつながりがあった訳ではないけれど、会津松平家の始祖となる正之の母親が真田家の人間だったということになる。当時、昌幸の嫡男信之は上田か、松代で存命だったはずだから、あるいは信之と正之が信之の妹にあたるこの女性を通して接する機会があったかも知れない。

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2001年02月04日 日曜日

昨日は節分。この頃はしなくなったけれど、子供の頃は僕の実家でも豆まきをしていた。節分の豆まきは平安時代の頃の追儺の儀式に遡れるという。ということは、幕末の頃にはきっと一般にも定着していたのではないだろうか。節分の翌日のこの日。京都の壬生にある新選組の屯所にも、あるいは長州や薩摩藩の藩邸にも、いく粒かの豆が転がっていたかも・・・なんて考えるとちょっと楽しい。それとも、関西のほうでは豆まきってしないのかな。もし、間違っていたらごめんなさい。何の根拠もない僕の妄想です。

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2001年02月03日 土曜日

ジョン万次郎こと中浜万次郎は、1851年のこの日(嘉永4年1月3日)、アメリカの捕鯨船アドベンチャラー号に乗り、沖縄の摩文仁海岸に到着した。この時、万次郎は24歳。14歳の時にカツオ漁で遭難してから、10年の月日が経過したことになる。いまの時代、あるいは他の時代でも同じなのかも知れないけれど、幕末という時代を見ていると凄い巧妙に幾つもの伏線がはられていて、必要なときに必要な人物が登場する仕組みになっている。というか、そういう仕組みになっているとしか僕には思えない。このジョン万次郎もその中の一人。長い鎖国が続いたあの時代に海外を探訪出来た偶然と帰国したタイミングの絶妙なことと言ったら、誰かがシナリオを書いたとしか思えない。そういう偶然が重なりあって時代が動いている。この不思議さといったら・・・ねー。

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2001年02月02日 金曜日

関ヶ原の合戦での諸大名の動きと戊辰戦争での諸大名の動きというのは良く似ていると思う。上手く両軍を渡り歩き、家名をつないだ大名がいれば、負けると解っていながら負ける側について戦った大名もいる。中には関ヶ原の合戦と戊辰戦争とで別々の選択をした家があれば、同じ選択をした家もあるのではないかと思う。別にそれが解ったからどうという話ではないけれど、ふと、調べてみると面白いかも知れないと思った。

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2001年02月01日 木曜日

幕末・・・と直接関係のあることではないけれど、1892年2月1日(明治25年2月1日)は新選組3部作や「勝海舟」などで知られる作家子母沢寛の誕生日とのこと。新選組3部作は僕も幕末に転んだ直後くらいに読んで、あの聞き書きの文体にひかれ、かなり感動した。しかし、あとから完全な聞き書きではなく、創作が入っているということを知って少しがっかりしたのを覚えている。あの本から史跡を拾って、探しに行ったことも何回かあった。あの本を手に京都を歩いた日が懐かしい。

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