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村田清風記念館 山口県長門市三隅下
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毛利敬親の下で財政改革に着手し、天保改革を主導した村田清風と、村田清風の後を継ぎ、幕末の難局に対処した周布政之助の遺品や資料を展示する記念館。敷地内に清風神社が建つ。記念館には、村田清風が進めた四白(紙・塩・米・蝋)と呼ばれる産業の奨励政策である防長四白政策にちなみ、三隅の民族資料を展示するコーナーも設けられている。毎週火曜日休館。

村田清風記念館

清風神社
三隅山荘 山口県長門市三隅下
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村田清風旧宅。村田清風が19歳までを過ごした場所で、萩城下に別宅を構えた後も三隅山荘と称して度々帰省した。吉田松陰をはじめ、横井小楠、月性などが訪れたという。清風松は、10代藩主毛利斉煕が毛利氏の祖先である大江広元、季光の墓の所在が不明になっていることを嘆き、調査を依頼された村田清風が、7年の歳月をかけて鎌倉鶴岡八幡宮の裏山に墳墓を発見した際に、墳墓の側らに生えていた稚松を萩の別宅に移したものである。後にその松の側に生えた実生の松をこの地に移し、三隅山荘の清風松と呼んだ。維新後に萩の別宅を訪れた木戸孝允は、家人の去った別宅の遺愛の松が伐採されることのない様、別宅に清風松の碑を建てたが、松が枯死したために兄弟松である三隅山荘のこの地に碑が移された。

三隅山荘門

清風松

清風松の碑

贈従四位大津唯雪翁の碑

母屋と清風産湯の井

三隅山荘遠景と五葉の松

尊聖堂

村田清風先生の碑

母屋内観
村田清風の墓 山口県長門市三隅下
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村田家三代(村田清風、大津唯雪、村田看雨)の墓がある。村田清風は毛利敬親の下で「八万貫の大敵」と呼ばれる負債の整理を行い、天保改革を主導した人物として知られる。大津唯雪は清風の次男で、幕末には正義派として行動し、七卿を擁して帰国したが、俗論派に捕らえられて村田姓と家禄を剥奪され、大津姓を名乗った。村田看雨は、唯雪の次男。防長の故事に精通することで知られ、維新資料編纂会の顧問などを歴任し、史料編纂に寄与した。

村田家累代の墓地

村田清風の墓

大津唯雪の墓

村田看雨の墓