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土蔵相模跡 東京都品川区北品川1丁目
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食売旅籠相模屋跡。相模屋は外壁が土蔵の様な海鼠壁であったことから土蔵相模と親しまれ、高杉晋作や桂小五郎を始め、多くの志士達が愛用した。御殿山に建設途中だったイギリス公使館の焼き討ちにはここから向かったといわれ、桜田門外の変では水戸浪士達が最後の酒宴を開いた場所としても知られる。現在はファミリーマート北品川店となっており、品川歴史館に復元模型が展示されている。
稲葉屋跡 東京都品川区北品川1丁目
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土蔵相模の4軒隣にあった引手茶屋稲葉屋(因幡屋)跡。土蔵相模などの食売旅籠(妓楼)には茶屋からあがるのが常で、桜田門外の変前に土蔵相模で酒宴を開いた水戸浪士達も稲葉屋から土蔵相模にあがったという。酒宴の後、稲葉屋に戻った水戸浪士達は、ここで計画を練り、翌日の襲撃に備えた。稲葉屋は現在さわやか信用金庫品川支店となっている。
御殿山 東京都品川区北品川3丁目
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権現山公園
将軍家の品川御殿があったことから御殿山と呼ばれ、元禄15年(1702年)に御殿が焼失すると跡地には桜が植えられ、江戸時代を通じて桜の名所として親しまれた。幕末になって台場の建造が始まると御殿山が切り崩されて大量の土砂が運び出され、地形が変わる程であったという。その後、イギリス公使館の建設予定地となったが、建設中の文久2年(1862年)12月、高杉晋作らによって焼き打ちされた。イギリス公使館跡地は現在の権現山公園あたりと思われる。御殿山はその後も鉄道敷設で切り通しが造られるなど大幅に地形が変化しており、桜の名所としての面影はない。
品川神社 東京都品川区北品川3丁目
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故東京府荏原郡長林君碑
文治3年(1187年)、源頼朝が安房国洲崎神社の天比理乃命を勧請し、品川大明神と称したことに始まる、品川の地名の由来となった神社。正面鳥居右手の坂の入口に故東京府荏原郡長林君碑が建つ。碑は伊藤博文に拠るもので、碑文の末尾に「内閣総理大臣正二位大勲位侯爵伊藤博文撰書」と記されている。
板垣退助墓 東京都品川区北品川3丁目
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品川神社裏にある土佐藩士、板垣退助の墓。板垣退助の他、板垣退助夫人、一族の墓が並び、佐藤栄作の筆による「板垣死すとも自由は死せず」の碑が建つ。板垣退助は遺言により、東海寺塔頭高源院に葬られたが、後に高源院が現世田谷区北烏山に移転する際、現在の地に残された。高源院のあった場所は城南中学校となっており、品川神社境内からしか墓所に入ることは出来ない。

  • 板垣退助墓

  • 板垣夫人墓

  • 「板垣死すとも自由は死せず」碑
御殿山下台場跡 東京都品川区東品川1丁目
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御殿山下台場は、11基中7基しか建造されずに頓挫した台場建造計画に代わり、陸続きの台場として建造されたもの。現在は完全に埋め立てられ台場小学校となっているが、五角形に建造された御殿山下台場の輪郭は台場小学校を取り囲む道の形となって地図上から確認することが出来る。小学校前には台場の石垣石を使用した記念碑が建ち、明治3年(1870年)、第2台場に設置された灯台のレプリカが置かれている。

  • 御殿山下台場跡

  • 品川灯台レプリカ

  • 台場石垣石
一心寺 東京都品川区北品川2丁目
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安政2年(1854年)、彦根藩16代藩主井伊直弼の開基となる真言宗のお寺。井伊直弼は一心寺建立にあたり、『日本鎮護、開国条約、宿場町民の繁栄安泰』を祈念したという。一心寺に建つ由来には大老職にある井伊直弼公が、と記載されているが、井伊直弼の大老就任は安政5年(1858年)であるため、これは誤り。
東海道品川宿本陣跡 東京都品川区北品川2丁目
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東海道五十三次の最初の宿である品川宿の本陣跡。かつては北品川、南品川に1軒ずつあったが、江戸時代中期頃に南品川の本陣が廃止になり、北品川の本陣だけが残された。明治元年(1868年)、明治天皇が行幸された際には行在所となっており、跡地は聖蹟公園として整備されている。聖蹟公園の由来を記した記念碑などが建つ。

    • 聖蹟公園由来の碑

    • 御聖蹟の碑

    • 聖徳の碑
釜屋跡 東京都品川区南品川3丁目
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建場茶屋釜屋跡。建場茶屋は一般的に旅籠より安価であったため、繁盛したといわれ、殊に釜屋は本陣同様の門構えをし、連日幕府関係者が宿泊したという。明治元年(1868年)1月には、鳥羽伏見の戦いから関東に引き上げてきた土方歳三を始めとする新選組隊士も一時釜屋に投宿した。
海晏寺 東京都品川区南品川5丁目
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児島惟謙墓
江戸随一の紅葉の名所として知られた曹洞宗の古刹。長久4年(1043年)、鮫の体内から発見されたと伝えられる鮫洲観音を本尊とし、執権北条時頼の開山といわれる。児島惟謙の墓がある。児島惟謙は宇和島藩の出身で維新後、大審院長となり、大津事件では司法権の独立を護った。墓地には他に岩倉具視、松平春嶽、中根雪江、由利公正の墓があるが、一般には公開されていない。
越前鯖江藩間部家下屋敷跡 東京都品川区東大井4丁目
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大井公園から立会小学校を含む一帯は旧越前鯖江藩下屋敷のあった場所で、大井公園内に説明板が設けられている。もとは仙台藩伊達家の下屋敷が置かれていたが、元文2年(1737年)に鯖江藩と屋敷地の交換を行い、鯖江藩下屋敷となった。福井県に領国のあった鯖江藩は井伊直弼のもとで老中首座となった7代藩主間部詮勝の名で知られる。
山内豊信(容堂)墓 東京都品川区東大井4丁目
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土佐藩15代藩主山内豊信の墓。号である容堂の名で知られる。山内容堂は幕末四賢侯の一人として活躍し、維新後は内国事務総裁などを歴任。無類の酒好きで自ら鯨海酔侯と称したりした。明治5年(1872年)没、享年45歳。墓は遺言により、容堂が愛した下総山(土佐山)に葬られたが、立会小学校建設にあたり校庭のほぼ中央位置より現在地へ改葬された。公開時間は午前9時から午後5時まで。12月29日から1月3日は見学することが出来ない。
坂本龍馬像 東京都品川区東大井2丁目
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京浜急行電鉄立会川駅前にある坂本龍馬像。浜川砲台跡地より敷石の一部が発見されたことを記念し、高知市より寄贈されたもの。坂本龍馬は嘉永6年(1853年)、土佐藩抱屋敷(浜川砲台跡)警護に動員されており、その縁に因る。
浜川砲台跡 東京都品川区東大井2丁目
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跡地付近より勝島運河を望む
嘉永6年(1853年)、土佐藩抱屋敷に設けられた砲台跡。近年、敷石の一部が発見された。現在は埋め立てが進み、往時の面影もないが、かつて勝島運河を含む東側には海が広がり、坂本龍馬も土佐藩抱屋敷(浜川砲台跡)の警護に動員されたという。
鈴ヶ森刑場跡 東京都品川区南大井2丁目
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慶安4年(1651年)に設けられた御仕置場で、重罪人の処刑が行われた。江戸では東西の出入口となる小塚原と鈴ヶ森に刑場が設けられたが、往来の激しい場所で晒したり、処刑を行ったりすることで警告を促す意味があったとされる。由比正雪の乱の丸橋忠弥、八百屋お七などが処刑された鈴ヶ森の刑場は、明治4年(1871年)に廃止された。