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護国寺 東京都文京区大塚5丁目
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真言宗豊山派の別格本山。徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の発願によって建立された。護国寺には、山県有朋の墓もある。

護国寺

三条実美の墓

清岡公張の墓

山田顕義の墓

田中光顕の墓

大隈重信の墓
萩の舎跡 東京都文京区春日1丁目
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萩の舎跡
安藤坂の中程、東側にある萩の舎跡は、歌人中島歌子の開いた歌塾のあったところ。中島歌子は水戸藩士林忠左衛門の妻であったが、忠左衛門が天狗党に参加し、亡くなったため、実家に戻って萩の舎を開いた。萩の舎からは樋口一葉などの優れた人材が輩出された。
徳川慶喜終焉之地 東京都文京区春日2丁目
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徳川慶喜終焉之地
明治30年、駿府より東京に戻った徳川慶喜は、巣鴨に居を構えたが、巣鴨邸の側に鉄道が開通することが決まると、明治34年、騒音を嫌ってこの地に移った。ここは生誕の地である旧水戸藩邸に近く、慶喜は他界するまでの12年間をこの地で過ごした。邸のあったところは今井坂の西側にあたり、現在は大蔵省の宿舎となっている。
伝通院 東京都文京区小石川3丁目
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文久3年2月、将軍警護のために上洛する浪士隊が集結したところ。浪士隊はここから出発し、中山道を通って京都へ向かうこととなった。境内には浪士隊結成の立役者である清河八郎とその妻お蓮の墓がある他、8.18の政変で京都を追われることになった七卿のうちのひとり、沢宣嘉の墓がある。清河八郎の墓は墓地南西側、沢宣嘉の墓は墓地北東側。

伝通院

沢宣嘉の墓

清河八郎とお蓮の墓
小石川後楽園 東京都文京区後楽1丁目
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水戸藩の藩祖徳川頼房が中屋敷の後園として造営し、2代光圀の時代に完成した廻遊式泉水庭園。徳川斉昭が西行堂側の流れに駐歩泉と名づけ、自ら筆をとったという駐歩泉の碑や藤田東湖護母到命之処碑がある。藤田東湖護母到命之処碑は、藤田東湖が圧死した上屋敷内南東隅の長屋跡(白川通り沿い)にあったが、拡幅工事のため、小石川後楽園内に移されたとのこと。

大泉水

駐歩泉の碑

藤田東湖護母到命之処碑
養源寺 東京都文京区千駄木5丁目
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安井息軒の墓
養源寺は臨済宗妙心派のお寺。安井息軒の墓がある。安井息軒は幕末の儒学者で昌平坂学問所の教授を勤める傍ら、私塾三計塾を開き、谷干城、広沢真臣、品川弥二郎、雲井龍雄、陸奥宗光などを育てた。
吉祥寺 東京都文京区本駒込3丁目
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曹洞宗のお寺。もとは水道橋にあったが、明暦の大火に遭って、この地に移った。現在の武蔵野市吉祥寺は、この移転に伴い、寺町の人達が移り住んだことに由来する。墓地には、榎本武揚、板倉勝静、鳥居耀蔵の墓がある。

吉祥寺本堂

板倉勝静の墓

板倉勝静の碑

榎本武揚の墓

鳥居耀蔵の墓
六義園 東京都文京区本駒込6丁目
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元禄15年(1702年)、側用人柳沢吉保が川越藩下屋敷に造成した廻遊式築山泉水庭園。詩経の六義から名を六義園とし、屋敷を六義館と称した。柳沢家が大和郡山藩に転封となった後も下屋敷として受け継がれるが、明治21年(1888年)、荒廃していた六義園を岩崎弥太郎が買い取って別邸とし、ついで昭和13年(1938年)、東京都に寄付され現在に至る。

出汐の湊東南より中の島を望む

内庭大門

六義園碑
大円寺 東京都文京区向丘1丁目
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高島秋帆の墓
大円寺は曹洞宗のお寺。高島秋帆の墓がある。高島秋帆は幕末の砲術家。長崎町年寄兼鉄砲方として出島砲台の管理を行う傍ら、海外の軍事技術を修得。幕府に洋式砲術の採用を説き、天保12年に徳丸ヶ原において洋式砲術演習を行った。鳥居耀蔵に罪を着せられ、幽囚の身となるが、嘉永6年のペリー来航により釈放され、講武所砲術師範役となった。享年69歳。
高林寺 東京都文京区向丘2丁目
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緒方洪庵の墓がある。緒方洪庵は幕末の蘭学者で、大阪に私塾適々斎塾(適塾)を開き、村田蔵六、橋本左内、高松凌雲、福沢諭吉らを輩出した。その傍ら種痘所除痘館を作るなど、種痘事業にも功績がある。文久2年に西洋医学所頭取兼任として奥医師となったが、翌文久3年他界した。
同墓地には他に心形刀流の剣客で幕府講武所教授方を勤めた忠内次郎三の墓がある。

緒方洪庵の墓

顕彰碑

忠内次郎三の墓

忠内家の墓
大林寺 東京都文京区向丘2丁目
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曹洞宗のお寺。松平太郎の墓がある。松平太郎は陸軍奉行並などを勤めた幕臣で、明治元年(1868年)榎本武揚らと江戸を脱出し、箱館に入ると選ばれて副総裁となった。降伏後は明治5年(1872年)に赦されて開拓使、県権参事、外務省に出仕。墓は松平家之墓となっており、墓誌に松平太郎の戒名「延徳院殿正親義幹大居士」が刻まれている。

大林寺

松平家の墓