
林鶴梁墓
浄土真宗のお寺。幕末の儒学者林鶴梁の墓がある。林鶴梁は上野国群馬郡萩原村(現群馬県高崎市)生まれの幕臣で、長野豊山、松崎慊堂に儒学を学び、藤田東湖に推されて奥火之番に抜擢。甲府徴典館学頭、中泉代官、出羽幸生代官などを歴任。退任後は亡くなる前日まで門弟に講演を行ったと云われる。享年73歳。
乃木希典が30歳から2年間住んだ屋敷跡。明治11年(1878年)1月、歩兵第一連隊長に任ぜられた頃に購入し、明治12年(1879年)の冬に新坂町の屋敷に転居するまで過ごした。この屋敷では、長男勝典が生まれている。屋敷跡は現セブンイレブン。
慶長10年(1605年)、照海上人の創建となる薬師如来を本尊とする真言宗智山派総本山智積院の別院。安政5年(1858年)、オランダ使節の宿舎として指定され、以後ロシア、フランスの使節が宿舎とした。
上総請西藩の藩主で伊庭八郎らの遊撃隊に共鳴し、藩主自ら脱藩した林忠崇。青松寺にはその林忠崇の墓がある。林忠崇は遊撃隊と共に箱根から東北まで転戦するが仙台にて投降。明治4年に釈放され、東宮職員などを勤めた後、昭和16年に93歳で他界した。
 青松寺 |  林忠崇の墓 |
猿寺の名称でも親しまれる栄閑院は、天徳寺の分院として寛永年間の開山となる浄土宗のお寺。境内には杉田玄白の墓がある。杉田玄白は若狭小浜藩の藩医杉田甫仙の子で、前野良沢らと『解体新書』の翻訳を行い、蘭学の祖と呼ばれた。著書に『蘭学事始』などがある。享年85歳。
浄土宗江戸四ヶ寺のひとつに数えられる天徳寺は、天文2年(1533年)親誉称念上人の開基となる浄土宗のお寺。慶長16年(1611年)、江戸城拡張に伴い、現在の地に移転した。安政6年(1859年)7月26日、外国事務掛遠藤胤統、酒井忠毘は、天徳寺において東シベリア総督ムラヴィヨフと樺太境界について談判し、ロシア側の主張を退けた。
 天徳寺 |  天徳寺本堂 |
増上寺の境内だった敷地を公園化したもので、増上寺周辺に散在する都立公園。増上寺三解脱門の向かい側に位置する芝公園敷地内には、ペルリ提督の像、万延元年遣米使節記念碑が建つ。
みなと図書館の敷地内に置かれた旧第五台場の石垣石。台場は江戸湾防衛の拠点として11基が計画されたが、予算不足などから規模が縮小され、第四、第七台場の未完成を含む7基が建造されるにとどまった。この石垣石は、品川埠頭建設にあたり、その敷地内に埋没する第五台場から運ばれたといわれる。

長岡謙吉墓
浄土宗のお寺。長岡謙吉の墓がある。長岡謙吉は土佐藩の医師の家に生まれ、シーボルトに師事するが、シーボルト事件の嫌疑を受け、蟄居。その後、許されたが脱藩し、海援隊に参加。坂本龍馬の信任を受け、『船中八策』の起草など、様々な海援隊文書の作成を行った。龍馬の死後、海援隊の隊長に任命され、維新後は大蔵省、工部省に出仕するなどしたが、明治5年(1872年)病のために他界。享年39歳。

武田竹塘先生紀功碑
徳川家康を祀り、寛永18年(1641年)の創建となる神社。初め安国殿と称し、増上寺境内にあったが神仏分離によって東照宮と称される様になった。参道に武田竹塘先生紀功碑が建つ。武田竹塘(武田斐三郎)は伊予大洲藩士で、緒方洪庵、佐久間象山に学び、箱館五稜郭を設計した人物として知られる。
慶長3年、今川義元の孫にあたる門庵宗関の開山となる曹洞宗のお寺。昭和20年、大本山永平寺の東京別院となった。井上馨(聞多)の墓がある。井上馨は藩の留学生として伊藤博文(俊輔)とロンドン滞在中、四ヶ国連合艦隊が長州藩に報復を行うとのニュースを聞き、帰国。事態の収拾に奔走した。維新後は、参与、外国事務掛から大蔵大輔を経て、工部卿、外務卿、大臣職を歴任し、長州閥の元老として権勢を振るった。
新選組一番隊組長、沖田総司の墓がある。沖田総司は明治元年5月30日没。享年25歳。墓は年に1度だけ、総司忌のときのみ、参拝可となる。
赤羽接遇所とは、幕府の用意した外国人のための宿舎兼応接所でシーボルト父子なども利用した。現在は飯倉公園となっており、公園内に赤羽接遇所の説明板が建つ。
アメリカ公使館通訳ヒュースケン暗殺現場となった古川に架かる橋。万延元年12月5日、赤羽接遇所からアメリカ公使館のあった善福寺に戻ろうと馬でこの橋にさし掛かったヒュースケンは、突然数人の刺客に襲撃された。直ぐに善福寺に運ばれ治療が行われたが、刀傷は深く、翌午前零時半頃に亡くなったという。享年28歳。
将軍警護の名目で集めた浪士隊を以って攘夷の先鋒にしようと企てた清河八郎は、文久3年4月13日、この一之橋を赤羽橋方面に渡りきった辺りで佐々木唯三郎ら6名の刺客により暗殺された。享年34歳。
最初のアメリカ公使館が置かれたところ。アメリカ総領事ハリスは、当初下田の玉泉寺に領事館を置いたが、幕府当局者と直接交渉することを要求。江戸出府の許可を得ると、善福寺にアメリカ公使館を置いた。ちなみにこの間、ハリスは総領事から公使に昇格。境内にはハリスの記念碑が建つ。
また、墓所には慶応義塾大学の創始者である福沢諭吉の墓がある。
麻布界隈は坂が多い。ここ仙台坂は、かつて坂に隣接する南側一帯が仙台藩下屋敷であったことから、仙台坂と呼ばれる様になった。
イギリス公使館通訳伝吉とアメリカ公使館通訳ヒュースケンの墓がある。伝吉は、オルコックのもとで通訳をしていたが、公使館のあった東禅寺の門前で万延元年1月、何者かに刺殺された。また、ヒュースケンは、ハリスの書記兼通訳として下田領事館時代から重用されていたが、万延元年12月、赤羽接遇所から公使館のあった善福寺に戻る途中、斬りつけられ死亡した。
もとは南部盛岡藩の下屋敷であったが、維新後、有栖川宮熾仁親王の邸宅となり、昭和9年に下賜されて公園となった。有栖川宮熾仁親王は、皇女和宮の許婚であったことでも知られるが、和宮は公武合体政策により、徳川家茂に降嫁することとなった。公園にある銅像は、千代田区三宅坂の旧陸軍参謀本部にあったものだが、道路拡張工事に伴い、縁の深いこの地に移された。
承応年間、禅僧卓峰が本所牛島に結んだ庵を始まりとする黄檗宗のお寺。幕臣京極越前守(能登守)高朗の墓がある。京極高朗は文久3年の遣欧使節に目付として同行した人物で、後に神奈川奉行、長崎奉行を歴任した。
長野県にある善光寺の別院。慶長6年(1601年)、谷中に建立されたが、焼失したため、現在の地に移された。境内には勝海舟の撰文による高野長英の碑がある。
 善光寺 |  高野長英の碑 |
薬品で顔を焼き、人相を変えた高野長英が、沢三伯という名前を使って住んでいた青山百人町組屋敷小島助次郎の借家跡。逃亡生活の末にようやく妻子との暮らしを手に入れた長英だったが、嘉永3年(1850年)10月、南町奉行所の捕吏に踏み込まれ、自ら喉を突いて自殺した。高野長英隠れ家跡は現在、青山スパイラルとなっている。
 青山スパイラル |  高野長英先生隠れ家の碑 |
益満休之助らの江戸撹乱工作に業を煮やした幕府は、慶応3年12月25日、この薩摩藩邸を包囲し、これを焼き払った。現在は日本電気の本社ビルとなっており、ビルの北側に碑が立っている。薩摩藩邸跡碑は、かつては供養塔だったとのこと。

西郷南州・勝海舟会見之地碑
明治元年3月13、14日の両日、江戸城総攻撃を目前に東征軍参謀西郷隆盛と陸軍総裁勝海舟の会談が行われたところ。かつての薩摩藩蔵屋敷跡。現在は三菱自動車のショールームとなっている。
臨済宗のお寺。米沢藩上杉家の菩提寺で、幕末期の米沢藩々主上杉斉憲、茂憲の墓がある。また、会津藩の重臣神保修理、萱野権兵衛の墓があることでも知られる。神保修理は家老神保内蔵助の嫡男で鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜に恭順を説いたことが主戦論者の反感を買い、江戸に幽閉された後、藩命により切腹した。会津藩家老萱野権兵衛は会津戦争終了後、戦争責任者として東京に護送され、飯野藩保科家下屋敷において自刃した。
臨済宗妙心寺派のお寺。最初のイギリス公使館が置かれ、東禅寺事件の舞台となった。東禅寺事件とは、文久元年5月、初代イギリス公使であるオルコックを水戸浪士が東禅寺に襲撃した事件。オルコックは難を逃れたが、オリファントとモリソンが負傷した他、襲撃側、公使館側に死傷者を出した。