インフォメーション
2007年05月

計画が空回り、最近後手にまわることが多いです。

2007年05月27日 日曜日

金曜日から宇都宮へ。土曜日の午後は用事ついでに児島強介誕生地から市内の史跡散策をスタート。児島強介、菊池教中、蒲生君平関連の史跡を歩きました。意気揚々とスタートしたのも束の間、八幡山墓地にあるはずの児島強介の墓が見つからず、炎天下を歩かされるハメに・・・。目標としていた児島強介自筆の『処士強介墓』の墓碑が劣化しており、表面の文字が判別しづらい状況になっていたことと、勝手な先入観から児島家の墓だと思い込んでいたためで、婿入りした手塚姓の墓碑に気が付くまで判りませんでした。結果としてはこちらも清巌寺同様、手塚家のもので、児島強介の墓も義弟が建立したものとのこと。八幡山は市内の中心にあり、子供の頃、よく遊んだ場所でもあったため、児島強介には巡りあわせというか、奇妙な縁の様なものを感じます。しっかり手をあわせて来ました。

TOP
2007年05月02日 水曜日

長崎海軍伝習所が設けられたのと同じ長崎の西役所内に語学伝習所と呼ばれるものがあったということはあまり知られていません。安政5年(1858年)7月、奉行支配組頭永持亨次郎の申し出により、在所が永持亨次郎の官舎に移り、語学伝習所は英語伝習所と名前を変えます。最初の講師は意外にもオランダ人が2人、イギリス人が1人でした。さて、ここに永持亨次郎という人物が出て来ます。英語伝習所に官舎を提供した永持亨次郎は、勝海舟、矢田堀景蔵と並び、長崎海軍伝習所の艦長候補として将来を嘱望された人物でした。のち吏才が認められ長崎奉行支配吟味役に抜擢されると、会計担当として長崎製鉄所の建設に携わります。ロシアが対馬を占領しようとした際にはその交渉役として活躍しました。元治元年(1864年)には禁裏守衛総督徳川慶喜支配の目付介にまで進みますが、この年、病に倒れ、39歳の若さで急逝されました。永持亨次郎は途中で吏僚としての道を選んでいることと、その死が早かったため、あまり知られてませんが、この時期の長崎海軍伝習所を覗いてみるとその周辺には永持亨次郎の様に様々な分野で抜きんでた人物が集まっており、調べ始めると興味深いものがあります。

TOP
2007年05月01日 火曜日

ゴールデンウィーク。普通に出社です。この頃ゴールデンウィークはじっとして動かない様にしています。特に車で渋滞に巻き込まれるのは非常に苦痛なので、出掛けても歩きで、移動はもっぱら電車中心です。昔の様に疲れも厭わず、混雑の中にダイブする様な休日の過ごし方はしなくなりました。後半の4連休は気が向いたら都内でも少し散策してみようかと思ってます。先日、鮫洲にある山内容堂の墓に行って来ました。墓のある場所は土佐山と呼ばれ、昔は海を望むことが出来、容堂が愛した場所だったと云います。本人が遺言でこの地への埋葬を望んだことでも愛着の深さがわかります。しかし、墓は現在、小学校の敷地の片隅にある塀に囲まれた薄暗い場所にあります。景観が損なわれて行くのはある程度諦めざるを得ないのかも知れません。しかし、元は小学校のほぼ中央位置にあったという墓を移す際、あるいは大井公園のもっと緑豊かな明るい場所に移すことが出来なかったのか、と思います。四賢候に数えられ、混沌とした幕末の政局の中を土佐藩主として生き抜いた人物の墓にしては寂し過ぎる気がしました。

TOP